【道徳とは、人を正すためのルールではなく人を人として扱おうとする感覚である】

コラム

「道徳」と聞くと、

  • 守るべきルール
  • 正しい行い
  • 善悪の判断

そんなイメージを持つ人が多いかもしれません、ということを2月のコラムで書いたと思います。

でも、そうではなくて、道徳のいちばん根っこにあるのは、「共感する力」だと考えている、ということも
コラムや講座でお伝えてしてきましたね。

今回のコラムでは、道徳と仏教の教えを少し繋げて考えてもらえるような
お話をしたいなと思います。

実はこの考え方は、私が子どもの頃に祖母から聞いていた言葉や、
仏教の教えとも深く重なっています。
仏教は「人を正す教え」ではなく、
「人の苦しさにどう寄り添うか」を問い続けてきた思想だからです。

***

道徳は正しさを教えるものなのか?

みなさんは、道徳って、教えるものだと思っているところはないですか?
例えば
「ウソをついてはいけない」
「人を叩いてはいけない」
「順番を守りましょう」
私たちは子どもに、
“正しい行動”を教えることが道徳だと思ってきたと思います。
もちろん私のその1人です。

でも、自身の子育てを通して、またkuccaの学びを通して、
道徳とは、人を正すためのものではなく、
人を人として扱おうとする“感覚”なのではないか
と思うようになっていました。
この感覚があったからこそ、10歳のトビラでぜひ道徳を扱いたいと思ったのを覚えています。

子育てをしていると、ふと違和感が出てくる。

正しいことを言っているのに、なぜか状況がギクシャクする。
正しさが、息苦しくなるとき、ありませんか?

子育ての現場では、とくに「正しさ」が強く求められます。

  • ちゃんと育てなければ
  • 間違えたことは正さなければ
  • 母親はこうあるべき、という思い込み

正しくあろうとすること自体は、決して悪いことではありません。
むしろ、子どもを大切に思うからこそ生まれる姿勢だと思うのです。

しかしこの、「正しさ」が強くなりすぎると、
いつの間にか子どもは
“関わる相手”ではなく“うまく育てる対象”
に変わってしまうことがあります。

「この対応が正しい」
「この声かけが正解」
「こうすれば育つ」
こう考え始めた瞬間、この正しさが人を人から遠ざけ
コントロールする対象になってしまうのだと思うのです。

泣く理由を探すより「泣かせない方法」を探してしまうようになる。
泣くという根本を否定して、泣かせないコントロールに走ってしまう。

そこにあるのは、
子どもの心よりも
「理想の育児像」に合わせようとする力なんじゃないかなと。

仏教では、「戒(かい)」つまり「してはいけないこと」は、
人を縛るためのルールではなく、
苦しみを増やさないための知恵だとされています。

形だけ守って、相手の苦しさを見なくなった瞬間、
それは仏教的にも、道を外れた状態になってしまうのです。

感じることは、自由である

人は、生まれた瞬間から「快・不快」を全身で感じています。
排泄もそのひとつですよね。
濡れた、気持ち悪い、苦しい、出たら楽になった。

仏教では、すべての出発点に「苦」があります。
苦しい、嫌だ、思い通りにならない。
それを「なかったこと」にせず、
まず“ある”と認めることが、智慧の始まりだとされます。

まだ言葉を持たない赤ちゃんは、感じたことをそのまま身体で表現します。
この
「感じること」は、本来とても自由なもの
です。

だからこそ本来、道徳の根っこにあるのは
「正しさ」より先に
“感じてもいい”という土台なのではないかなと思うんです。

でも、ここで大切なのは、
共感することと、言いなりになることは違う
という点です。

「嫌だったんだね」
「気持ち悪かったね」

そう受け取ることは、
子どもの要求をすべて叶えることでも、
自分の気持ちに蓋をすることでもありません。
自分の感情とは境界線を持ったままでいいのです。

ただ、その人がそう感じた、という事実を尊重する
ただ、それだけです。

実は、この「自分の不快や感覚を、誰かにそのまま受け止めてもらう経験」こそが、
道徳の出発点になります。

「気持ち悪かったね」「嫌だったんだね」と認められて育った子は、
自分の中に「快・不快」という感覚の物差しを持つことができます。

自分という一人の人間を大切に扱われた実感が、
いつか「相手にも、自分と同じように守られるべき心があるんだ」という、
他者への想像力、つまり道徳の芽へと繋がっていくのだと思うのです。

だから、順番を守らせることよりも先に、
まずはその子の「感じていること」を人として尊重する。
その積み重ねが、何より豊かな道徳教育になるのではないでしょうか。

子どもはまだ論理で生きていません

「なぜダメか」より「どう感じたか」が先にある

たとえば――

〈お友達を叩いてしまった〉
それ自体は「悪い行動」かもしれない
でも、その前に

  • 悔しかった
  • おもちゃを取られた
  • どうしていいかわからなかった

そんな感情や感覚があるんです。

ここを飛ばして正すと、子どもはこう学ぶのかなと。

👉 感じたことは出してはいけない
👉 正しさの前では、気持ちは無視される

自身の「苦」を認めることから

私自身も、正論で子どもを追い詰めてしまうことがあります。

例えば、忙しい時に子どもがダラダラ遊んでいると、
つい「やるべきこと(宿題)(明日の用意)を先にやりなさい!」と
正論をぶつけてしまっていました。
でも、その時の私の心を見つめてみると、そこにあるのは教育的ではなく
「早く母親業もろもろ本日閉店させたい」という、私自身の「苦(不快)」だったりするんですよね。

そんな時、仏教の教えを借りるなら、まずは私自身が
「あぁ、今私は余裕がなくて疲れているんだな」と認めてあげることから。
子どもを正す前に、自分の「不快」に寄り添って、ひと呼吸置く。
「お母さん、今ちょっと余裕なくてイライラしてるわ」と自分の状態を認める。

親である私たちが自分の「苦」を無視せずに扱えて初めて、
子どもの「苦」にも目を向けられるようになるのだと思います。

「正しく育てる」ことではなく、「共に育つ」こと

子どもは、管理すべき存在ではありません。
関係性の中で、共に育つ相手です。

親もまた、迷い、揺れ、失敗しながら育っていく。

正しさを盾にコントロールする育児ではなく、
感じることを起点に、「どう関わるか」を探っていく育児。

それはとても不確かで、答えのない道かもしれません。

でもその不確かさの中にこそ、
人を人として扱おうとする道徳の芽が育っていくのだと、私は思います。

仏教には「縁起(えんぎ)」という考え方があります。
親も子も、正しくある存在ではなく、共に揺れ、共に育つ存在。

その前提に立つこと自体が、私は「道徳」なのだと思うのです。

今の世の中は、テレビやSNSを見ても「正しさ」で誰かを裁くような動きばかりですが、
だからこそ私たちは、別の道を探したいなと思います。
また皆さんと考えていきたいです。

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